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2019.08.10父の遺影

父に遺影を撮るよう命じられた。

「写真選びは自分でする?私がする?」と聞くと、

「お母さんに選んでもらう」と父は言った。

 

 

 

 

2019.01.29プロフィール写真

画質が荒くて、ピントが合ってなくて、格好も髪型も決まってなくて、化粧も落ちている私の、最高のプロフィール写真。

最近プロフィール写真を変えた。

今までのプロフィール写真は私なりに化粧をちょっと濃い目にして、肌が明るくみえるよう白いシャツを味方に足掻き、プロの方に撮って頂いたそれはそれはそれは素敵な写真だった。

あれから年も重ね、プロフィール写真の提出を頼まれるたびに少々嘘をついているような罪悪感がチクチクと痛み出した。

ということで、プロフィール写真を変更しようと

だが、ちょっと待てよ。

時に被写体の泣き顔や辛い姿を撮影している自分が、バッチリ化粧とライティング、更には自分史上最高のキメ顔をプロフィール写真にするのはあまりにも横しまではないか。

それならば

撮影させて頂いている被写体の小学2年生女の子Aちゃんに入院中の暇つぶしにでもなればと使い捨てカメラを2つ渡した。ひとつはAちゃん、もうひとつはAちゃんの双子の妹Bちゃんに。

退院後動物園に行った際に、2人ははそのカメラで好き好きに、フクロウさんを撮って、コウモリさんを撮って、私を撮って、ヤギさんを撮って、ママを撮って、AちゃんはBちゃんを、BちゃんはAちゃんを撮っていた。

数日後、出来上がった写真の中には、フクロウさんがいて、コウモリさんはいなくて、私がいて、ヤギさんがいて、ママがいて、同じDNAを持ったお互いがいた。

プリントを見て私のプロフィール写真はこれにしたいと思った。被写体目線の自分こそ写真家の鳥飼祥恵。

他のプロの写真家さんのそれ比べるとクオリティもインパクトも劣るだろう。しかし、これぞ私の最高のプロフィール写真。

先日開催されたトークショーで「良い写真とは?」と質問があった。

私は「世界を変える写真」と応えた。

私が思う「良い写真」とは彼女が撮ってくれたそんな写真だ。

 

 

 

 

2014.10.07sachie

「紹介したい人がいる」

友人Aから写真と共にメールが送られて来た。

「私の娘です。」

突然の朗報に沸き、1秒も足らない早さで「おめでとう!!!!」とメールを返した。

「貴女の名前をつけました。sachieです。」

愛娘に私の名前をつけるなんて…なんてことを…。おいおい、それでいいのか??というのが私の第一印象。

とりあえず、「そりゃ美人になること間違いないね!成長が楽しみ。」と返事をした。

すると、Aは前者には全く触れず「ありがとう」と返して来た。

Aに知り合ったのは2003年10月か11月だったかな。それから、10年以上諸般の事情を見て来た。

はるばる海の向こうから日本に来た頃は日本語は全く話せず、お互いなまりになまった英語と身振り手振りで意思疎通をしていた。

出会った日の夕方、Aのフリーメールのアカウントを作り、これでいつでも祖国の家族と連絡がとれるようになるようになるよ!とホームシックにならないように気を遣った、つもりでいた。

数年後、Aが笑いながら話してくれた。あの頃、私の家族は貧困の真っ只中にいてパソコンを手にするなんて夢のまた夢だったんだ。アカウントを持っていたところでメールを送る人がいなかった。

平和ボケしていた私の親切心は徒労に終わっていたのだ。

その後Aはまっすぐ突っ走った。常に自分の中の何かと戦っていた。何度も何度も転んでは立ち上がっていた。

日本人である私の常識とAの常識は幾度となく衝突した。それでも、嫌いになることはできなかった。

Aの祖国にも行った。お母さんと弟と10日間ほど過ごした。Aが仕送りしたお金で、夢の夢だったパソコンがあった。家も建っていた。庭には以前住んでいた家があった。「この家の前はあそこに住んでいたのよ」と教えてくれた。私の感覚ではそれは「家」ではなかった。私の実家にある犬小屋の方がよっぽど雨風しのぐことができる。

お母さんと買い物に行った。両手では抱えきれない程の服をレジで清算していた。お母さんは終始ニコニコしていた。

Aはこの為に踏ん張って日本で生きているんだと実感した。

2年前、Aにとって大きな試練があった。

全く連絡をとることができず、どこにいるかも分からなかった。

少ない情報を頼りに、Aの居場所を見つけ出した。

久しぶりに会ったAは痩せこけ、ストレスで髪が真っ白になっていた。

その時Aは憎しみに溺れていた。「死にたい」と言っていた。

そんな姿を私は見ていられなかった。しかし、まっすぐ目を見て言った。そうするべきだと思ったから。

「憎しみに目を向けてもなにも生まれない。前を見て欲しい。」

敬虔の念が深い誠実なAなら、そんなこと分かっていたはず。

人間はとても複雑な生き物。感情と理性が一致するとは限らない。必ずしも、理性の通りに動ける程強くはない。

Aは首を縦には振らなかった。

私は何もできなかった。

そんなAが今生涯の伴侶を得、親となり、会社を経営している。

その時はそんな素晴らしい将来を想像することなんて微塵も出来なかった。

もし、あの時の「前」である今を知ることが出来ていたならば苦労を苦労とも思わなかっただろう。

あなたは将来結婚し、子供が産まれるんだから安心しなさい!と私はAに光を与えることができただろう。

悲しいかな、それは不可能。

先も見えない真っ暗闇をただ歯を食いしばって耐えることしかできなかった。

試練を乗り越えたあと、夜中酔っぱらって電話がくることが度々あった。呂律がまわらない舌で、私にほんろうにありらろうごじゃいま〜す!!と連呼していた。

正直、酔っぱらいの相手をするのは面倒くさかった。しかし、それ以上にお酒を飲んで楽しんでいる声を聞けて涙が出るほど嬉しかった。

Aは必ずいい親になる。大きな試練を乗り越えたことで人の心の痛みを理解し、そして感謝の意を持つことができるから。

今度はあなたとの思い出を噛み締めて言います。

おめでとう。

そして、私の名前をつけてくれてありがとう。

私も背筋を伸ばします。

海の向こうのsachieに会う日を夢見ながら。

 

 

sachie

 

 

 

2013.05.12雨の日、母の日

しとしと降る雨を見ると、時々母を思い出す。

私が小学生の時。

雨の中傘をさして下校していると、向こうから同じ小学校の先輩が傘を持たずに濡れながら歩いて来た。

もう家がすぐ目の前だったので、私が持っている傘を彼女に貸してあげようとしたのだが、

ひとこと声をかける勇気がでずそのまますれ違っただけで終わった。

帰宅し、そのことを母に伝えると、

「あなたは傘を貸してあげられなかったのね。」

「でも、貸してあげようと思ったの。」

「でも、あなたは貸さなかった 。」

私は何も言い返すことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

そんな母、いい歳した今も平気な顔して服を後ろ前間違えて着ています。

 

 

 

2013.05.09写真旅

望父

 

 

一枚の写真旅。
友人Nが昔から大切に部屋に飾ってあった一枚の写真。
記者だったNのお父さんが取材していたところ「いい髭してるね~」と監督に気に入られ、急遽牧師役に抜擢されたとのこと。

今年の元旦、酒を片手にいかにこの写真は素晴らしいか…云々と御託を並べた私にNが「この父の姿を映像で見たい」と。
そこから写真旅が始まった。
この写真を見て分かるのは
① 中井貴一氏が出演している映画orドラマ
② 結婚式のシーンがある
③ お父さんが髭を生やしていたのは今から20~25年ほど前
④ お父さんの仕事柄北海道と関連がある?
仕事の合間をぬって各々で調べ、夜中の電話会議を重ね、これだ!!と見つけた映画「ラブレター」。
ドキドキしながら見ると写真そっくりの花嫁が北海道にいるシーン。
きたーーーーっ!と二人とも画面にかぶりつく。…が、そこで「完」。漬物石を乗せたかのように肩を落とし、その日はお酒を飲む気もおこらず帰路につく。そしてまた一から研究しなおし、目についたのは中井貴一の制服。
商船高専出身の私は見覚えがあり、これはきっと船舶に関わる人の制服だ。それ故中井貴一氏が海上保安庁飛行士役で出演した「新 喜びも悲しみも幾歳月」ではないかと提案。
Nは年代的にこの映画は違うと思うと反論。そして、探すのに疲れ切ったNはもう無理なんじゃないかと言い出す。
それにカチンときた私は「諦めたらそこで試合終了なんやぞ!」と安西先生のお決まりのお言葉を拝借。いつもならのってくるNだが、相当疲れていたのか「ブルーレイが主流の時代にvhsがたまっていくこっちの身にもなってみろ」と反論。結果、喧嘩勃発。
二人とも落ち着いたころ結局Nが折れてくれ、その映画を見てみることに。願掛けで、Nとお父さんが待ち合わせをしたことのあるハチ公前で待ち合わせ、また親子二人で食べたことのある鰻屋…は予算の関係上諦め、その代わりにラーメンを食す。「景気付けにビール飲もうか?」と私。「絶対寝るなよ」とN。念のため気持ち小さめのビールを選び、お腹いっぱいで鑑賞開始。1時間ほど経った頃、案の定私はいつの間にか…。
心地よい眠りについたとき、Nに鼻をつままれ「苦しいやろが!」と目を覚ますとNが何も言わず画面を指で指していた。そして、指の先には…。

「ほら、私の言ったとおりやろ~!」
「寝てたくせに。」
「……。」
何度も何度も巻き戻し、お父さんの姿を目に焼き付けた。その後二人で祝杯をあげ、Nが一言放った言葉は、
「俺、髭伸ばす。」

私はそのとき、父親の背中を見て育った一人の青年を見た。

一枚の写真から始まった4ヶ月間の写真旅。
素敵な時間をありがとう。

 

 

 

2011.04.08スーパーおばあちゃん

私の祖母は頑固で、無口で、優しい。

昔、誰にも連絡をよこさず富山の実家に来たことがある。静岡から電車を乗り継いで今までに来たことのない家にやってきた。母が仕事から帰ってきたら玄関の前にちょこんと座っていていた祖母。突然のことで家族みんな目を丸くした。腰が曲がり足の悪い祖母がどうやってたどり着いたかは未だ不明。

翌日、ニコニコ笑って静岡に帰って行った。

また、祖母は子供はもちろん孫11人の誕生日を全て覚えている。高校にあがるまで、毎年孫の誕生日の新聞を全部とっていた。高校にあがるとともに本人に譲渡。さらにはひ孫9人の誕生月まで覚えている。

その他にも数々の武勇伝を持っている祖母はまさにスーパーおばあちゃん。

そんな祖母が他界した。

胃がんの報告を受けてから約1カ月。あまりにも突然で、そしてあっという間だった。

1カ月前祖母のお見舞いに行った時、具合が悪いのにもかかわらず「ジュース飲みな」「ご飯食べた?」「バイクは危ないから気をつけるだよー」と自分よりも私のことを気遣ってくれた。

そして、2回目のお見舞いの時。別人かと思うほど顔がむくみ、体にはいくつもの管が通っていた。それでも祖母は「うちに帰りたい。うちに帰りたい」とかたくなな態度を崩さず、半ば無理やり医院長先生に一時帰宅の許可をおろさせた。

うちに帰り、私と一番目の伯父で祖母に付き添った。冷たい手足をなぜか祖母はさらに冷やしてほしいと頼んできた。二人で濡れタオルで冷やし、口が渇くからと濡らした脱脂綿をくわえさせ、というのを繰り返していた。

そのうち、だんだん祖母の声は弱くなっていった。

祖母が「背中の座布団をとって」と言ってきた。

しかし、背中の下には座布団なんてなかった。感覚が麻痺していた。

「座布団ない……よ…」と伯父が床に崩れ落ち、涙を流し始めた。

初めて見る伯父の姿だった。還暦過ぎた大の大人が泣き崩れる姿と娘のように私をかわいがってくれた伯父の姿が頭の中で交差してなんともやるせない気持ちになった。

祖母のためなら何でもしてあげたいのに、祖母が何をしてほしいのかがわからない。無力な自分がもどかしくてたまらなかった。

そんな時、「アルバイト…アルバイト…」と弱々しい声で祖母が言った。

「え?何?」と聞き返していると伯父が「ありがとうって言ってるんだよ」と教えてくれた。

「ありがとう」

これが私が聞いた祖母の最後の言葉だった。

その後祖母は話すこともできなくなり、救急車で病院に戻った。

救急車の横で二番目の伯父が頭をかかえて泣いていた。

救急車の後を追って病院に着いた時は祖母の意識はなく、呼吸だけ感じとることができた。

医者に「今日が山です」と、TVドラマで見たことのある風景が目の前で起こった。

子ども、孫、ひ孫が病院に集まってきた。しかし、富山を出発した母はまだ向かっている途中。「お母さんが来るからもうちょっと頑張って!!」と祖母に言い続けた。

まさかこんなことになるとは思っていなかった私はパニックになり、トイレの中で泣きじゃくった。

1時間ほど経ち、母が息をきらして病室に入ってきた。祖母の手をにぎり「おかあちゃん!おかあちゃん!」母は祖母を呼び続け、私は母が祖母のことをそう呼んでいることを初めて知った。

私の前ではいつも「おばあちゃん」だったから。

その後間もなく祖母は眠るように息をひきとった。

祖母は末っ子の母をちゃんと待っていた。

祖母らしい潔い死にかただった。

さすがスーパーおばあちゃん。

子ども達は祖母に付き添い、孫たちで家の掃除を始めお寺さんを迎える準備をした。親族の団結力を実感した。急にバタバタと忙しくなり、悲しみにふける余裕もなく従兄達と冗談を言い合うこともできた。ただ、みんなの目は真っ赤だった。

数日後通夜と葬儀が行われた。おばあちゃんらしい葬儀にしたいと、明るい色で飾ったり、スライドで祖母の生い立ちを流したりと一風変わった葬儀だった。遺影には私が去年撮影した写真が使われた。

これからどんなに大きい仕事をしたとしても、自分が写真を撮ることでこれ以上誇りに思えることはないだろう。

最後に孫11人全員が祖母の前に並んで弔辞を行った。それぞれの思い出を語り、感謝の気持ちを述べた。最後に弔辞を述べたのは、祖母が育ての親となった私より5つ上の従兄だった。前日に「俺の見事な話しっぷりでオーディエンス泣かせてやるから任せとけ!」と豪語していた彼が、書いてきた手紙を読めないほど声をつまらせながら泣いていた。

火葬場で祖母の骨を見ると、91歳とは思えないほどのしっかりした骨だった。

骨になってもスーパーおばあちゃん。

東京に帰ってきて、祖母の話をすることがなくなり急に寂しくなった。今でも、生活をしていて急に涙が溢れてくるし、寝ようと思って目をつむるとおばあちゃんの笑顔が出てきて嗚咽が出るほど泣いてしまう。それだけ私の中で祖母の存在は大きく、そして偉大だ。

前を向いて進まなければと思う反面、この寂しさを乗り越えたと同時に祖母が遠くへ行ってしまうような気がしてくる。だから、ずっと祖母が亡くなった悲しみにひたっていたいとも思う。

しかし、祖母はそんな私を見たら「いつまで泣いていたってしょうがないだよー!しっかりしなさい!」と言うだろう。こんな私の姿を祖母は望んではいない。

だから、祖母のためにも私は私の道をまっすぐ進んで行こうと思う。

祖母がそう生き抜いたように。

おばあちゃん、いっぱい愛を与えてくれて

「ありがとう」

10番目の孫 祥恵より

 

 

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